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Hiragana Times Magazine

Asahi Newspaper 

JAPAN TIMES June 6, 2012

東北で子供たちを癒す道化師

アメリカ人パフォーマーである、ガイ・トタロ氏は自由主義を信条とし、「ひとつ笑顔がこぼれるたびに、、、世界が変わっていく」ためにそれを実践している。

ジアニーニ・サイモン

ジャパンタイムズ特別寄稿

最近のように経済が停滞し不況の時代には、外国人が日本のエンターテイメントの世界に入り込むのは非常に厳しいと思われる。たまに一部の人々が才能と忍耐と運を組み合わせて、首尾よくニッチ市場を確立することがある。

ガイタノ「ガイ」トタロ氏もそのうちの一人で、街頭から舞台や劇場まであらゆる場面で演技できる俳優として、その「マルチ・タレント能力」を大いに活用している。同氏は有名ではないかもしれないが、その大柄な体格は特に「Mr. CC Lemon」や多くのほかの突飛な外国人キャラクターを演じるテレビコマーシャルに出演してから日本国内ですっかりおなじみとなっている。

これはもちろんどれも見事だ。だがトタロ氏は、自分の本当の生業はクラウンの仕事を介し、人々の生活と地域社会に積極的にかかわっていく、いわゆる社会事業的クラウンであると強調する。

「13歳のときに、自分の歌声をほめられました。それは肯定的な注目を受けた、まさにはじめての出来事でした。そして勇気づけられた私は、高校でコーラス、さらにミュージカル劇場へと進みました。そこで公演による絶大な効果にも気づかされました。

のちに政治に対する強い関心がでてきました。私は自由主義的な考えを持っていたので、結局サンフランシスコに行き、大変素晴らしい演劇科があるサンフランシスコ州立大学に入学しました。」とトタロ氏は語った。サンフランシスコは常に率直で開放的な人々を引きつけ、政治的・革新的パフォーマンスをするグループの発祥地となった。もっとも有名なのはサンフランシスコ・マイム・トループで、演劇の役柄の原型から成るイタリアの喜劇、コメディア・デル・アルテと、野外見世物の伝統を1950年代後半から採り入れている。

「ある日公園で無料パフォーマンスをしていたサンフランシスコ・マイム・トループに偶然出会ったのです。そのとき喜劇に基づいたミュージカル劇と自由主義の両方に対する私の情熱が、完璧な組み合わせであることに気づいたのです。ショーの後、彼らに声をかけ、トレーニングと引き換えにボランティアをすることを申し出ました。それが長い修行の始まりでした。」とトタロ氏は回想した。

トタロ氏は大学の最終学年のとき、アメリカのほぼ全土をまわるマイム・トループ制作に割り当てられ、ショービジネスの仕事のスタートを切った。「父方の家族はシシリー出身です。残念なことに、父は私が2歳半のとき他界したので、故郷のイタリアと結びついたのは、成人になってコメディア・デル・アルテの研究をするようになってからでした。」と同氏は語った。この15世紀の手法は現在知られているサーカスのクラウンなど西洋式の物理的な喜劇の祖である。

リングリング・ブロザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスのクラウンに出会ったときに、トタロ氏の運命ははっきり決まった。「そのサーカスの研修プログラムは『喜劇のハーバード』として知られています。入学するのが大変難しい上、楽しいけれども、カリキュラムがきついのです。私は本当に運よく入学が許可され、人生が変わりました。」と述べた。

トタロ氏は1992年にリングリングのいわゆる「道化師学校」を卒業し、その翌年、同氏の人生がまた劇的に変化した。思いがけなく日本のあるエージェントが、リングリング学校で訓練を受けたクラウンを雇おうと連絡してきたのだ。それから1ヶ月もたたないうちに、同氏は後楽園ゆうえんちで働いていた。「私はまさにその初日に将来の妻となる女性に会いました。妻は、私やほかのアメリカ人のクラウンたちを雇うエージェンシーで、パートタイムのマネージャーとして働いていました。妻はフラメンコを勉強しているスペインで、たいてい生活していたので、私たちが出会ったのは本当に偶然でした。東京には収入を得、かつ家族に会うためだけに帰省していました。」

トタロ氏が訪日したときは、資産インフレのバブル終期で、まだ現金がたくさんあふれていた。「外国人パフォーマーの手当は非常に高く、同程度の手当をアメリカ国内でクラウンとして稼ぐのは到底無理でした。後楽園の契約が終了すると、千葉のサーカスをテーマにしたレストランで働き始めました。一晩に3回、1週間に6晩のショーを6ヶ月間行いました。それは日本人のユーモアのセンスを会得するいい機会でした。」

仕事の合間を縫って、トタロ氏はスペインにいるガールフレンドのところに行き、それから彼女がサンフランシスコにいた同氏と合流した。最終的に二人は2,3年生活した東京で結婚し、トタロ氏の故郷であるロサンジェルスに落ち着いた。そこでもクラウンと商業演劇の仕事を継続し、ラスベガスの新しくオープンしたばかりのベネチアン・ホテルでコメディア・トループの公演をした。義理の母が2005年に癌の宣告を受けたのを機に、再びサーカステントをたたみ日本に戻った。だが時代は変わっていた。

大もうけできるところはもうどこにもなく、かつての外国人のエンターテインメントの市場は消えていた。「1ヶ月で1億円稼いでいたトップクラスの人でさえ、街頭で大道芸をしていました。またさらに悪いことに、商業市場は軽々しく単価とレベルを押し下げた素人であふれていました。だから自分の会社を設立し、誕生会など家族向けエンターテインメントのニッチ市場に力を入れる決意をしました。会社名は私の名前をもじったもので、外国人の『外』と楽しいの『楽』と書いて外楽(ガイタノ)と読みます。」と述べた。

昨年の東日本大震災後、トタロ氏が滑り出しの頃、カリフォルニアで経験したことが役に立った。「私の最初のクラウンとしての仕事は、オークランドという町の夏期の仕事で、クラウン・モバイルと呼ばれるものでした。私たちはクラウンやサーカスの技を教えることにより、恵まれない、病気の子供たちを力づけるため、荒れた都市近隣を巡業しました。3月11日の大震災のあと、私は自分の経験が、救援活動の大事な要素である治癒過程で役立つに違いないと察知しました。

個人的なつてを頼りに、私は震災の一ヵ月後、東北に向かい、もっとも影響を受けた被災地、数か所でショーを行いました。ポジティブな効果がすぐ見られましたが、さらにもっとする必要性もわかりました。本当の変化をもたらすためには、全面的スポンサーシップと物流支援が必要だったので、何年にもわたり支援している慈善団体に話を持っていきました。そのうちの一団体が快く引き受けてくれたので、ほぼ2週間に1回、1週間のツアーにいけるようなプログラムを協同で進めました。」と話した。

トタロ氏は11ヶ月間で、保育園や幼稚園、小学校や避難所そして仮設住宅など85ヶ所を訪問し、8千人の子供たちと交流することができた。笑いは身体と精神の両方に有効であることが証明されており、心的外傷後の治癒過程で特に有益である。「このプログラムの第一目標は特に心的外傷後ストレス障害(PTSD)の影響を受けやすい子供たちの笑いと幸福を取り戻すことです。」と述べた。

トタロ氏のショーはジャグリング(品玉)や音楽、手品などから構成され、そのすべてが喜劇的なアプローチである。バイオリンのケースから取り出した傘をジャグリングしたり、ミュージカルソー(西洋のこぎりを用いた楽器)を演奏したりして、始終意表を突きながら、自分が桁外れのことができる驚異的な人物ではなく、滑稽で超現実的な状況に立たされた何者かのように常に立ち回る。「私の役柄は、皮肉をこめて『スーパー外人』と名づけられたクラウンで、おかしな「間違い」を起こし、子供たちは私より先にそれに気づきます。すると自分たちが、一般的に常に統制の取れている大のオトナよりも、賢くて、おかしく感じるのです。ショーの後は私が子供たちに、披露したばかりのサーカスの技の数々を教えるワークショップが続きます。この背景にある観念は、特に今までできると思ったこともなかったことを、実行する力を子供たちが兼ね備えていることを教えることです。このプログラムで子供たちは、心が満足感で満たされ、想像力が喚起され、過酷な状況に対処する能力を与えられます。」

トタロ氏が東北を縦断するツアーのための資金供与は3月に終わったが、以降独自の非営利団体(NPO)を創設する段取りを進め、種を育み、それが根ざし、強く育ち、花を咲かせる手助けを継続できることを目指している。

「一ヶ月に1回、6日間のツアーを復活させ、そこに教員や養護者向け心的外傷後ストレス障害(PTSD)救援訓練を加え、さらに東京都内の学校と協同して、東北の生徒たちと友情の架け橋を築こうと計画しています。長期的な計画として、国内の病院や孤児院で援助が必要な子供たちへの奉仕活動をしたり、今後の災害に備えて救援準備をすることなどがあります。2,3回分の巡業資金を提供する草の根の支持をいくつか得ていますが、いつでも支持をさらに求めています。私のNPOのチームが成長するにつれ、クラウドソーシングのキャンペーンや、法人スポンサー向けのより積極的な奉仕活動を繰り広げていきます。いかなるご支援も歓迎します。

クラウンは臆病または邪悪であるとたいてい描写されます。東北での経験を通じ、社会のなかでクラウンが演じる、重要で長年にわたる役割に気づかされました。その伝統を継承することを誇りにし、私の取組みがクラウンのポジティブなイメージを復活させるために一役担うことを願っています。」と述べた。

政治に優先して芸能を選択した若いころの決意を振り返っても、トタロ氏は自分の選択を後悔していない。「クラウンを演じることは私が従事できる、非常に政治的な活動のひとつです。それはクラウンを通して人々に直接的かつポジティブな影響を与えているからです。人は本当に幸せなとき、前向きになり、他人とよりうまく接しようとします。だから私は本当に政治の世界を離れたわけではなく、ただアプローチの方法を変更しただけなのです。法律を策定したり、制定したりしようとはしていません。『ひとつ笑顔がこぼれるたびに、、、世界が変わっていく』ようにしているのです。」

ガイ・トタロ氏と東北救援プロジェクトの支援方法に関する情報は下記のウエブサイトへwww.supagaijin.com.


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